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今年の夏は葛城山で避暑⑤ 葛城山頂の直下の木にかってに《役行者の松》と名付ける

ボス弁:季節のこころ模様
11 /13 2018
宿舎から歩いて5分程度で葛城山頂に行きつく。
頂上には自然の岩石などは全くなかった。
花崗岩が風化してできたであろう薄い褐色の土のほぼ平らな台地で、周辺に草が生えていた。
周辺の山として、大峰山系の山々も見え、眼下には大和三山、三輪山から奈良や御所の街並みも見え、見晴らしはよかった。

頂上の少し下の斜面に、京都の高山寺の石水院から見える、私が勝手に《明恵の松》(山の尾根の《明恵の松》)と名付けていると同じような姿の松があった。

この葛城山の麓の滝《櫛羅(くじら)の滝》で役行者(えんのぎょうじゃ)が修行したという話がある。
役行者は、修験道という山岳宗教の開祖のような人であるらしい。
今でも、大峰山や熊野の山々奥駆けなどといって、険しい山野を歩き回って修行している山伏がいるが、彼らは修験道の行者ということのようだ。

何日にもわたり、山をひたすら歩き続けると、体が疲れ切り、自分の意識も、朦朧としてきたようなとき、周囲の環境と自分との間のバリアが無くなり、自然と一体としての自己を確認できるという一種の《宗教的》体験ができるのであろうか。
マラソンなどで長距離を走っているとき、20キロをすぎたあたりで、苦しさが飛び、ランニングハイという状態になることがあるという。
頭の中にエンドルフィンだかわからないが、《快楽物質?》なるものが出てきて、なんとも幸福な気持ちになるらしい。
山を何日も歩き続ける苦行を重ねると、同じようなハイな状態にもなるのであろうか。

時折、テレビなどでほら貝を吹く山伏の姿が放映されている。
日本全国に広がった修験道は、今でも脈々として引き継がれている。
役行者もまた、明恵と同じく、道を求めた孤高の人であり、時代を開いたいわば《宗教的イノベーター》である。
ここ葛城山直下約10メートルに根を生やしているこの木、冬は寒い風雪にさらされながらも、なおかつどっしりと根を生やしている、この木を私は、勝手に《役行者の松》と名付けることにした。


山頂へなだらかな坂
山頂へはなだらかな坂が続く。
もう秋の気配を感じさせる。



役行者の松
勝手に《役行者の松》と名付けられた山頂直下の木




今年の夏は葛城山で避暑④ 温度計を見て、《避暑の実感》を得る!

ボス弁:季節のこころ模様
11 /09 2018
今年の夏(平成30年)は本当に暑く、気温35度を超える日が続いた。
葛城山へ行った日(8月11日)も、テレビによると、大阪と奈良の最高気温は同じく36度であった。
葛城駅でバス待ちをしているときも蒸し風呂のような暑さだった。
ロープウェイの葛城山頂駅に着いたとき、温度計があり、見るとなんと24度であった。
温度差は実に12度。

標高差100メートルで0.6度、気温が下がると言われている。
葛城山は959メートルだから、単純に計算すると、海抜ゼロ地点と比較すると、山頂の方が約6度、気温が低いことになる。
それ以上に温度差があるのは、山頂がブナなどの林に覆われていることや、当日、道が濡れており、おそらく雨が降って気温を下げたからのようだ。
それにしてもこの温度差、本当にありがたい。
避暑の値打ちがある。

山頂駅から歩いて約10分で国民宿舎についた。
最近の国民宿舎は結構、豪華な感じのも多いが、ここの部屋は民宿のような感じだった。あるいはよく言えば山小屋風というべきか。
驚いたのはエアコンがなく、扇風機が置かれていることだ。
気温が24度程度なら、扇風機を使わないでもいいだろう。
冬はおそらく石油ストーブを部屋に持ち込むのだろう。

夜、部屋の電気を消して寝ようとしたとき、
窓のカーテンを閉めていないことに気づいた。
立ち上がって窓に近づいたとき
窓の外におそらく御所市の市街であろうか、
夜景が広がっていた。
両側を山の峰があるためにU形に切り取られてはいたが、
明かりを消して初めて気づいた、ささやかな贈り物だった。


気温24度
なんと24度だった。



ロープウェイ
わりと新しいロープウェイだった。

今年の夏は葛城山で避暑③ 百日紅が遠い夏の日の記憶を呼び起こす。

ボス弁:季節のこころ模様
11 /07 2018
御所の駅からロープウェイ駅までの間、バスに25分くらい乗ったであろうか。
バスの窓から見ていると、百日紅(さるすべり)の木が多い。
道沿いにある古い家なら、ほぼ2軒に1本の割合でピンクや赤の花を咲かせている。

百日紅は、はるか昔の夏を想い起こさせる。
海辺の海岸沿いの道、少し左にカーブした岬の突端に向かって歩いている、その私の右側に百日紅がピンクの花を咲かせている。
場所は裏日本の福井県あたりの海岸、時間は午後3時ころだろうか、太陽の日差しは刺すように強い。

誰か友人と行ったはずだが、それは弁護士の武村君らなのか、あるいは高校と大学同級であった坂本君らなのかも思い出せない。
正直に言えば、この記憶さえ、本当はどこまで現実であったのかも、定かではない。
遠い日の記憶は、その多くが忘れ去られ、二度と戻ることはない。
また、今、残っている記憶にしても、事実に反して自分が作りだした部分もあるだろう。

結局、間違いないのは、《夏、暑い日に海のそばで百日紅を見た》ということのみであるかもしれない。
しかし、その核心部分だけは何十年も経た今での心の中にしっかりと根を生やしている。
さて、葛城で見た百日紅、心の中にどこまで根を生やして、記憶に残っていくことだろうか。


民家の百日紅
民家には百日紅の花が多く咲いていた。



この景色も遠い記憶に
この景色も遠い記憶になるのだろうか。

今年の夏は葛城山で避暑② 昔、耳成山に登ったことがある

ボス弁:季節のこころ模様
11 /06 2018
耳成山の話が出てきたので、少し、横道にそれた話をする。
今から45年近く前の話だが、妻の父が耳成の社宅にいた。
長男が生まれたころで、家族3人でよく泊まりに行った。
その社宅は耳成の駅で降りて名古屋方向に5分程度歩いたところだった。
反対方向に同じ程度、歩くと耳成山があった。

万葉集の中に、大和三山で争いがあったという話が記載されている。
男の山である畝傍山をめぐって、女の山である香久山と耳成山が争ったというように理解されているようだが、異なる解釈もある。
耳成山は男の山だという説さえある。
しかし、耳成山はその形がこんもりと丸いことから、《乙女の乳房》と例えられているから女の山で、香具山は平べったい感じで、男性的な感じはしないので、どちらかというと男の山と思うけれども。
三山の争い、いずれが勝ったのか、又、勝ってどうなったのかはわからない。

義父の社宅に行ったついでに、耳成山に登ったことがある。
頂上に向かって細い道があった。
途中からは樹木が密に生えていて、景色がよく見えなかった。
頂上についたが、同じように木にさえぎられて、東西南北のいずれにも展望がきかなかった。
《乙女の乳房》に登ろうなどという大それたことはしてはいけない、周囲から眺めるのが一番よいということであろうか。



耳成山は乙女の乳房
中央に耳成山。後方は三輪山が見える。

今年の夏は葛城山で避暑① 《あ、あれは耳成山ではないか!》

ボス弁:季節のこころ模様
11 /05 2018
この夏はともかく熱かった。
長男とお盆は避暑に行こうかということで、あちらこちらの宿を探したが、6月末のことで、時すでに遅しで、どこも満員だった。
唯一、葛城山の国民宿舎が宿泊可能ということで、2泊することにした。
コースとしては、近鉄の御所駅で降り、そこからバス、ロープウェイと乗り継いでほぼ山頂にある宿に着き、自宅からは片道3時間程度だった。

バスの終着の葛城山ロープウェイ駅でバスを降りたとき、はるか下方に御所の街並みが見え、その後方に懐かしい山が見えた。
《あ、耳成山!》
平野にこんもりと盛り上がっている山の形で、一目で耳成山とわかった。
御所は奈良県だということはわかっていたが、まさか耳成山が見えるとは、そしてこんなに近いとは。
写真には写っていないが、耳成山の右手前には畝傍山が、右の奥手には天香久山が見えており、大和三山が一望できる。
ついでに言えば、耳成山の奥の方にある高い山が三輪山ということだが、2つの峰のどちらがそうなのかはわからなかった。
この大和三山に囲まれたところは藤原京があったところであり、耳成山の右手奥、天香久山の右側が明日香になる。

葛城山麓は、飛鳥時代の大和朝廷をささえた有力部族である葛城一族の本拠地であり、古くから開けたところである。
バスに乗っていると《櫛羅》などという何とも渡来人の時代を思わせるような駅名もあり(参考までに言えば、この駅名は《くじら》と読む)、猿目などという他ではあまり見かけない地名もあり、ここが古代から開けた地域であったと思わせるものがある。

飛鳥時代でも奈良時代でも、いつの時代もそうであるが、天皇の後継者や豪族の勢力争いが絶えず起こっていたはずであり、有力豪族はどちらの勢力に加担するのか頭を悩ませていたであろう。
一族の命運がかかる事態もあり得たはずであり、そのようなとき、都が一望できるこのような場所に来て、心静かに一族の行く末を思いやり、決断が出るまでその場に立ち尽くすというようなこともあったのではなかろうか。



三山
中央のややこんもりした山が耳成山。奥の高い峰が三輪山。



櫛羅
《櫛羅(くじら)》のバス停。



猿目
《猿目》も何やら古代の地名を思わせる。



忍海
御所の一つ手前の駅は《忍海(おしみ)》。これも古代の地名の感がある。