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小田原の陣、《総構え》の遺跡を見る

ボス弁:季節のこころ模様
11 /01 2016
地図4image

小田原というので思い出すのは、古くは《小田原提灯》、スポーツ好きなら正月の《箱根駅伝》だろうが、歴史に詳しい人なら北条早雲をはじめとする北条五代のことも思い出すだろう。

先日、熱海に行ったときに、小田原に立ち寄った。

小田原城はこれまでに行ったことがあるので、北条氏が作った《総構え》を見てきた(外部リンク:小田原市)。

これが作られたのは戦国時代、秀吉は既に東海地方以西をその支配下に置いていたが、北条氏の治める関東地方はまだ支配下になかった。

秀吉は約20万の兵を動かし、小田原城を包囲し、迎え撃つ北条氏は軍勢約8万(※人数はWikipediaの記載によった。但し、人数には諸説があり、小田原方がこれほどの人数を集めえたのか疑問である)。


東堀・看板
現地の説明板


西堀・看板
現地の説明板

北条氏は領主が氏政らの時代であり、防御のため、小田原城とその城下町の周囲の約9キロに空堀を作り、秀吉軍に備えたという。

その空堀は《総構え》といわれており、その一部が現在も残っている。

今回、見に行った総構えの遺跡は《小峯御鐘ノ台大堀切(こみねおかねのだいおおほりきり)》と呼ばれているところだ。

小田原駅から西北の方向、坂道を徒歩で約20分、小田原高校の横を通り過ぎて、山道に少し入ったところにそれはあった。

「総構え」写真①~②をみればわかるように、石垣もなく、又、山の上のことで水を貯めるようなものではなく、ただ掘ってあるというだけである。

そのため、普通に歩いていれば、単に両側が切り立った崖になった山道としか見えないだろう。


総構えの跡
《総構え》写真①

ネットなど検索してみると、現存するのり面の最高傾斜は50度と記載されているが、写真(「総構え」写真②)を見ると45度くらいに見えるが、私が見た実感は30~35度程度であったろうか。


のり面を登って見たが、火山灰が降り積もった関東ローム層の粘土質の地盤のため、スニーカーであってもかなり滑りやすい。

私が足軽などで戦うとすれば、この斜面は決して登れないということではないにしても、上を向けば滑りやすく、安定も悪くて、鉄砲を撃つのも、刀や槍を振り回すのはなかなかむずかしかろうという感じがした。

掘られた崖は版築でつき固められたというようなものではなく、又、構築時から既に約400年強の年月が経過していることから、長年の雨水で削られ、崖が低く、かつ傾斜が緩くなっているはずであり、もしそうであったなら、昔はより高く険しいので崖上で守る北条側の将兵にとっては極めて有利な位置からの攻撃ができたであろう。


総構えのり面
《総構え》写真②

残された総構えだけをみた限度では壮大さというほどのものではないが、それにしてもこのような堀を延々と周囲9キロに築いた北条氏の必死さは伝わってくる。

ただ、結果から言えば、《総構え》が役立つことはなかった。

秀吉と北条との構想の違い、そのスケールと質が全く違ったからである。

北条方は秀吉側に対応するため東海道の要衝に防御能力を高めた山中城を作り、総構えより更に工夫された空堀(畝堀、障子堀)を作り上げて戦闘に備えた。

しかし、秀吉軍の猛攻によりわずか半日で攻め落とされた。

このような情勢の中、籠城を続ける北条側はいつ、秀吉軍が攻めてくるか、極度に神経をとがらしていただろう。

しかし、秀吉軍はすぐに攻め入ることもなく、《総構え》の周囲に陣を張り、悠々と包囲を続ける。

秀吉側は水軍を使って小田原の海岸から物資を陸揚げしており、補給も万全である。


一夜城の方向
矢印の先が一夜城の建築された場所

そして、包囲している間、秀吉は北条方に知られないように、着々として城を築造させていたのである。

籠城する小田原城から西の方向に低い山があり、その山麓がその築城場所である。

《すごい!》と思うのは、秀吉側は、城を造っているのを北条方から気づかれないようにするために、小田原城の側の樹は伐採しなかったというところである。

そして、完成した時点で一気に伐採したということである。

北条方は、昨日までは全く見えなかったこの城が突然、出現した、その光景を見て、《ウオー》とどよめき、《秀吉おそるべし!》という言いようのない衝撃を受けたのではなかろうか。

そのどよめきや衝撃が《負けた》という気持ちに変わるにはそれほど時間はかからなかったであろう。

秀吉は、この城一つで北条方を心の底から揺り動かし、一滴の血も流さずに戦おうとする力を根こそぎ奪ったのであり、この心理作戦の結果、まもなく北条方は全面降伏をした。

秀吉はそれまでの戦いで、槍や刀の戦闘だけではなく、土木力による川をせき止めての水責め(備中高松城)、調略という説得による敵の切り崩しなど、アイデアを駆使した戦いをしていた。

その頂点がこの小田原城攻めであり、そこで発揮された秀吉側の構想力というか、創造力というか、そのすごさが《総構え》などを一挙に無力化し、粉砕してしまったというべきだろう。

北条側の籠城した小田原城は東海道線の海側にあるが、その西側にある高台に八幡山古郭東曲輪遺跡がある(外部リンク:小田原市・八幡山古郭)。

ここは見晴らしがよく、小田原城も見え、秀吉が水軍を使って補給物資を陸揚げした湘南の海も間近に見ることができる。

右手方向を見ると低い山並みがあるが、そこに一夜城の石垣山城の作られた山もある。


小田原城と海
左は小田原城。右手に海が見える


この城は、小田原城から約3キロの距離にあり、おそらく、決して攻撃目的に作られた城ではないのではなかろうか。

もし、そうだとすると、この城は単に心理的なショックを与える目的でのみで作られたものであり、それが弓矢や銃弾よりもはるかに北条方の戦闘力を失わせる絶大の効果を発揮した。

秀吉の軍師であった黒田官兵衛であろうか、あるいは、一体、誰がこのような素晴らしい発想をしたのであろうか。

いやいや、誰が思いついたにせよ、この案を採用し、実行させたのは秀吉であったから、秀吉はやはり類まれなる傑出した戦略を持った指揮官だったということになる。

歴代の北条氏は城下に水を引くために小田原用水を築造したり、又、城だけを守るのではなく、城下町やその民を守るために《総構え》をつくったりしており、これらを見ても、北条は善政をしいていたというべきだろう。

しかし、一番の善政は一夜城を見た後、何ら戦うことなく、自らの命を投げ出した決断にあるだろう。

北条側は結局、前当主氏政ら4名のみが切腹するということで、小田原の陣の戦いは終了し、8万の将兵の命は救われ、城下も焼かれずに済んだ。

これが最後の、そして最大の北条方の善政であったろう。

小田原駅付近のどこであったかは忘れたが、手書の看板で《北条五代を大河ドラマに!》という看板を見かけた。

もちろん、ドラマで放映されれば観光の役にたつであろうが、もし、その領主が地元民から愛されていなけれれば、このような看板も出ることもなかったであろう。

北条一族に対する感謝の念は今もなお、小田原市民の胸に刻まれているというべきだろう。

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