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ほのかな灯、ここに来て良かったと思えるとき ~つれづれに万葉(割込編)忍坂の古道を歩く⑫

ボス弁:季節のこころ模様
03 /19 2019
じんご石の後は石位寺(いしいでら)に寄った。
重要文化財の石造薬師三尊があるが、予約必要なため、見ることができなかった。
寺の階段を下りるとき、もう太陽は沈んでいた。
帰りは行きと同じ道を歩いて戻った。
忍坂坐生根神社(リンク)近くに来たとき、うすぼんやりとした光が見えた。
よく見ると、神社の境内の石灯篭にろうそくが灯されていた。
階段を上がった広場の24基の灯篭の全部にである。
境内に人の姿はなく、とりわけ祭り事があるようでもない。
その日は平日(水曜)だったから、おそらく毎日、そして、神主もいないようなので、地域の人が灯しているのだろう。
石灯篭に火を灯すのであるから、万葉や記紀の時代からではなく、鎌倉や室町、江戸時代などから始まったものかもしれない。
神輿を担ぐでもなく、又、神楽というような観光に役立つものではなく、ただろうそくに火をつけるという日常的な行為にすぎないけれども、それが毎日行われているということが、私にとってはよりすごいことのように思われる。
このような営みが続けられている、その場面を見ることができただけでも、ここ忍坂に来た値打ちはあった。
忍坂には心をかすかに揺さぶる何かがある。


毎日ともされる
うす暗闇に灯るろうそくの炎に感じるやすらぎ。


消えそうなろうそく
風に吹かれて今にも消えそうだけども。




脇道、寄り道、じんご石 ~つれづれに万葉(割込編)忍坂の古道を歩く⑪

ボス弁:季節のこころ模様
03 /14 2019
知らない所に行くとき、ともかく歩きまわる。
狭い範囲内しか動きまわれないが、小回りが利く。
面白そうな脇道があれば必ず入る、寄り道をする。
ときに思わぬ発見をすることもある。
で、《じんご石》というものを発見した。

大伴皇女らの墓を見た後、行きとは違う道を歩いた。
その途中、道路に大きな石が置かれていた。
周囲には岩は全くなく、この岩が孤立して存在している。
高さは2.5メートくらいで縦に長い。
背後に2歩の木の柱が空に向かって突き出ている。
その頂点を横木でつないで、そこに鐘が吊り下げられている。
神武天皇が八十建(やそたける)を征伐するときにこの岩に身を隠したとか、舒明天皇と関係があるとか言われているようだ。

参考までに言えば、古事記や日本書紀の双方に、神武天皇が八十建を攻め滅ぼしたという話があり、その段で忍坂の名が出てくるし、書紀には忍坂の記載のほぼ同じ個所に《大石》、《大きなる石》という記載もある。
これらを結びつけると、《忍坂の大きなる石》があった、それがこの《じんご石》となったのであろう。

《じんごいし》は、漢字では《神籠石》である。
先ほどの話にちなんで、《神》武天皇が《籠》った石ということなのか、あるいは霊力があるため、神が籠っている石とされていたことから名づけられたのか。
それにしても、神武や舒明などという天皇などの名前が、ひょいと簡単に出てくる、そんな土地柄というのがすごい。


神籠石の有形
神籠石の夕景
吊り下げられているのは
火事などの時に危険を知らせる警鐘だろうか。



神籠石の案内板
神籠石の説明看板

小川の中の岩に何か刻まれているものは・・ ~つれづれに万葉(割込編)忍坂の古道を歩く⑩

ボス弁:季節のこころ模様
03 /13 2019
大伴皇女の墓を後にし、鏡王女の墓も下っていくと、忍坂古道に流れ行く小川がある。
小川には沢山の岩が転がっているが、少し大きめのがある。
坂を上がっているときには気づかなかったが、他の岩とは色が違い、やや薄茶色である。
石には興味があるので、この岩、なぜ色が違うのかと不思議に思って、注目したときに気づいた。
岩の表面が長方形に削られ、そこに字が刻まれているのだ。
右下の字は「鏡王女」とある。
続いて3行は「秋山之 樹下蔭 逝水乃」とあり、《あきやまの このしたかげ ゆくみずの》と読むのだろうか、和歌が刻まれている。
川の中にこのような碑があるのには全く気付かなかった。
その後の文字は「吾許曽・・・」とある。
《われこそ》だろうが、その後は読めなかったが、和歌の後半が続いている(※注1)。
末尾に「孝書」とあるので、おそらく犬養孝先生の書のようだが、付近には何の説明板もない(※注2)。
川の中にポツンと置かれている。
気づくならそれでいい、気づかないならそれはそれでいい、ともいうようなふうに。
岩自体は川に転がっている他のものと同じ種類のもののようだ。
近くに寄って見たのではないからはっきりしないが、色が違うのは苔か地衣類のせいだろう。
この岩、和歌を刻むために一旦は川から引き上げられたのではあろうが、再び、小川の中に持ち戻されたのであろう。
注意して見ないと、山から転げ落ちた岩があるな、としか見えない。
この岩の位置やさりげない置き方も、犬養先生がきっと指示されたものであろう。

※注1 本を見ると、全文は次のとおりのようだ。
  秋山の木の下隠(かく)り 行く水の 我こそ 益(ま)さめ 思ほすよりは
※注2 実は、この記事を書いた後に、再度、現地を訪問したところ、説明版を発見した。この点は、今後、別途、《再び、忍坂を訪れる》というシリーズで述べてみたい。


犬養先生の石①
小川の中にある歌碑。
山から転がり落ちた岩という感じだ。



犬養先生の石②
犬養先生って、こんな字を書くんだ。

こんな高いところに大伴皇女の墓があるのは ~つれづれに万葉(割込編)忍坂の古道を歩く⑨

ボス弁:季節のこころ模様
03 /12 2019
舒明天皇の墓より上に、鏡王女の墓があるが、その横に大伴皇女の墓への案内板があった。
《この先 約120m上にあります》と記載されていた。
私は、万葉集の初心者であり、大伴皇女がどのような人物か、また、どのような歌を詠んだかも知らない。
ただ、せっかく来たのだからと山の斜面を上って行った。
なぜ、このような高みに墓を作ったのだろうかと考えながら。
しばらく歩いて、階段を上がったところに墓があった。
鉄の門があり、鳥居があるだけの簡素なものであった。
太陽が沈みかけてきたので、墓の写真を1枚だけ撮って、階段を下りて行こうとした。
その時、はるか西の方に、小さくではあるが、二上山が見え、その左に葛城の山並みも見えた。
舒明天皇よりも、鏡王女より高みに作られたのは、これらの山並みと関係があるのだろうか。大伴皇女が二上山や葛城の山とどのような関わり合いを持っているのか、今はわからない。
私の心の中にこの皇女と2つの山がしっかりと腰を据えたことは間違いない。
将来、彼女の歌を見たとき、その関係がわかるかもしれないし、わからないかもしれない。それでも、いつか解決するかもしれない疑問を蓄えこむ、それは楽しいことだ。



皇女の墓
夕暮れの大伴皇女の墓
細長く伸びた枠の先に階段があり
底を上がれば墓に行きつく。




墓から見える山々
階段をおりるとき見えた二上山、葛城山
はるか遠く、中央にあるはるか遠くの二上山、
その左手が葛城の山並み



あのゴーンの弘中弁護士より無罪を多くとった男がいる。

ボス弁:季節のこころ模様
03 /11 2019

笠井弁護士
笠井弁護士

あのゴーンの弘中弁護士より無罪を多くとった男がいる。
先日、東京で同期の弁護士の会合があった。
その中で、ゴーンの話も出た。
衝撃的な話を聞いた。
《おれは無罪事件13件で、弘中さんよりも多い》というのが笠井治弁護士の話であった。
《なぜ弘中弁護士は有名で、お前は有名ではないんだ?》聞いてみた。
《弘中さんは有名事件を担当していたが、おれはそうではない》という。
笠井は民事事件もしているので、刑事事件の件数はそれほど多くはないそうだ。
他の刑事専門の弁護士はこの45年間で無罪判決を得たのは数件という。
比較すると、いかに笠井の無罪件数が多いかがわかる。
NHKの番組「プロフェッショナル」で、《無罪事件のコツを知る弁護士》ということで出てもらいたいなぁ。